ハダノ元教頭が GIGAスクール と DX人材育成 について考えるブログ
この記事では、サンデープログラマとしてのハダノについて、(記憶をたどりながらぼちぼち)紹介していきます。
大学生協の新入生向けフェアで、「理系学部生の必需品」として紹介されていた関数電卓を購入しました。ポケットコンピュータという愛称で、ビープ音で「エリーゼのために」を演奏するプログラムを打ち込んだり、宇宙戦艦ゲームを作ったりしました。プログラミングの楽しさにはじめて触れました。
1年半の教養課程を終え、専門課程に移ると、実験・実習で夜遅くなることが多くなりました。データ解析に大学のメインフレームを使わせてもらうこともありました。Fortranという科学技術計算用の言語でプログラムを組み、カードの束を読み込ませて処理していました。4年生になると、TSS端末で画面を見ながらキーボードで入力できるようになるのでした。
個人用の小型コンピュータが「マイコン」と呼ばれていたころ、NEC PC-6001 というお手頃価格のマシンを購入しました。中古のTVをつなぎ、カセットテープにデータを保存しました。時間制限なくコンピュータが使えて興奮したのを覚えています。
当時は、ソフトウェア販売は普及していなかったので、コンピュータを使うためには、プログラムを打ち込む必要がありました。マイコン雑誌のプログラムリストを打ち込んだり、改造したりしてゲームなどを楽しむのが一般的でした。
ハダノは、そのほかに数理生物学で使うFortranプログラムをBASICに移植したり、簡単な音楽ソフトやお絵描きソフトを作ったりしました。3次スプライン関数をBASICで組んだら遅すぎ、Z80機械語で高速化したこともありました。
教員採用試験の面接で「プラネタリウムなどコンピュータを活用した授業をしたい」と答えたハダノでしたが、8ビットの時代は学級通信の印刷に少し使う程度でした。漢字フォントがなかったので、方眼紙に点を打って必要な分を自作していました。成績処理以外の実務では、ハンディワープロに負けていました。
2校目のとき(1980年代後半)、16ビットコンピュータを手に入れました。内蔵BASICでOS機能も開発もこなすのではなく、OS機能はMS-DOS、開発はC言語と役割分担したのです。国産機は漢字ROMを内蔵しており、ワープロや表計算などのソフトウェア販売も広がり始めました。
このころ、サンデープログラマの多くは壁に直面していました。これまで通りBASICでプログラミングすることはできましたが、主流はC言語でした。難解なうえに開発環境も整備されておらず、趣味としてのプログラミングは衰退の危機にありました。せいぜい、バッチ(またはsed,awk)を組んで市販ソフトを順番に動かすか、表計算ソフトのマクロ機能でプログラミング気分を味わうか、ぐらいでした。
そんなときに、生徒用コンピュータが導入されました。MS-DOSマシンの世界は、漢字ROM搭載で独自規格の国産機と汎用的なDOS/V機が争い、混とんとしていました。「巨大ドット壁画」を作った1993年もそんな状態でした。ソフトウェア的には、7つほどの処理を組み合わせる必要があったのです。
Windows3.1、windows95が現われ、キーボードからコマンドを打つ代わりにマウスで視覚的にソフトウェアを操作するようになりました。
Windowsでのプログラミングも、視覚的にできるようになりました。RAD(ラピッド・アプリケーション・デベロップメント)ツールの登場です。GUI部品をペタペタと貼り付け、ユーザーの操作に応じたコードを書くだけなので簡単でした。Visual Basic というビジュアルプログラミング向けのBASICがすっかり気に入りました。メインルーチンのない、イベントドリブンのプログラミングスタイルにもやがて慣れました。
「ハダノ先生はコンピュータが得意らしい」という噂が広まり、教員研修や公民館講座の講師として呼ばれるようになりました。そこで強調したのは、「コンピュータが得意になりたければ、プログラミングをしなさい」ということです。「料理の歴史、テーブルマナーやおいしい料理店」をいくら知っていても、調理ができなければ「料理が得意」とは言えないはずです。
西日本の理科教員研修会の講師に指名されたときも、マジックナース「レイアウト」というSF仕立ての人体内アドベンチャーゲームを参加者に作らせることにしました。Visual Basic でアドベンチャー用の簡易言語を作っておき、サンプルゲームをもとに参加者に続きのシナリオを作成させるというものです。画像の連続表示でアニメーションもでき、大きな手ごたえを得ました。
公務災害で左腕に障害を負い、「人生終わった」と落ち込んでいたハダノは、ハダノ校長の勧めでインターネット部を作りました。こねっとプラン参加校になり、ホームページを作ったり、他の学校と交流したりしました。1997年6月19日の「こねっと・特別セミナー」では、全国4校の質問校に選ばれました。講師のビル・ゲイツ氏に、NTTのマルチメディア会議システムで次の質問をぶつけました。
Q: 「インターネットはからっぽの洞窟」という本に書いてあることは本当ですか?
それに対して、ゲイツ氏は
A: いつの時代にも新しいメディアに対して否定的な人はいます。道具はその特性を理解して使うことが大切です。インターネットを中身の豊かな百科事典にするために、力を合わせていきましょう。
と、丁寧に答えてくれました。
国民文化祭のマルチメディア部門で作品コンテストが開催され、インターネット部も一般の参加者にまじって、プレ・本番それぞれに出品しました。プレ国民文化祭では、かぐや姫のパロディ紙芝居で第2位を獲得しました。
「今度こそ優勝を」という思いで部員一丸となって臨んだ国民文化祭には、「クローン戦隊ドリーマーズ」を出品しました。マジックナース「レイアウト」のときに作った簡易言語をJavaに移植し、最新生物学の知見を盛り込んだSFアドベンチャーゲームに仕上げました。「容量1MB以内かつWeb上で見られるもの」という条件をクリアするのに苦労しましたが、見事グランプリを獲得しました。ごほうびは、PC1台とマルチメディアフェスティバルへの招待でした。インターネット部全員で、🔗押井守監督の記念講演 を聞きました。
Windowsは視覚的な操作ができて便利な反面、定型的な操作では弱点を抱えていました。何をするにもいちいちマウスを動かす必要があったのです。マクロやショートカットキーで、ある程度スピードアップできますが、ソフトを組み合わせて動かすのは困難でした。
IE(インターネット エクスプローラ)用のスクリプトをWindows上で実行できるようにした WSH(ウィンドウズ スクリプト ホスト)が、Windows98から使えるようになりました。これをうまく使えば、人がへばりついてなくても自動実行できるRPA(ロボティック プロセス オートメーション)が実現できるはずです。
TieUp(あらゆるアプリとタイアップし、全自動処理を実現)というWSH強化用のフリーソフトをVectorで公開しました。Visual Basic で作った ActiveX DLLで、いろんなPC雑誌に紹介され、ユーザーは1万5千人に達しました。
しばらくは、VB系言語(Visual Basic,VBScript,VBA)による幸せなプログラミングライフが続きました。
国民文化祭'98のときは、Webでしっかりしたインタラクティブなコンテンツを作るには、Java Applet か Director くらいしか選択肢がありませんでした。クローン戦隊ドリーマーズを Java Applet で作ったのは、そういう理由があったのです。「オブジェクト指向」はなかなか手ごわかったと思います。※ Java Applet は2015年以降、ブラウザサポートが打ち切られて廃れました。
やがて Internet Explorer4 と Netscape Navigator4 によるブラウザ戦争が勃発しました。HTMLとCSSにJavaScriptを組み合わせてインタラクティブなコンテンツを作る「ダイナミックHTML」という技術が登場しましたが、ブラウザ間の互換性が乏しく、面倒くさいものでした。
2000年からの10年間は、Flash がWeb表現の中心でした。動画編集のようにタイムライン編集ができ、クリエイターたちの支持を集めていました。2005年ごろになると、Googleの Gmail や GoogleMap でも使われているAjaxを活用した軽量のサービスが注目されましたが、リッチな表現分野ではあいかわらずFlashでした。
このころのハダノは、Webでリッチなコンテンツを作る必要がなく、Flashは無視していました。「Webは、IE+VBScriptで十分」「ローカルは、VB があるさ」と思っていました。ところが、インターネット対応で出遅れたマイクロソフトが、2002年に Visual Basic の大幅な仕様変更をしたのです。VB.NET 7.0 は、従来のVB 6.0 とは全くの別物でした。ローカルだけでなくWebでも動く、本格的なオブジェクト志向、Java や C# のような言語仕様……。Visual Basic Magazine などの雑誌は、「早くVB.NETへ乗り換えよう!」という記事のオンパレードです。VB 6.0 や エクセルVBA のノウハウが役に立たず、気軽さが失われたように感じ、ドットネット環境へ移行することをためらいました。ドットネット言語のうち、 C# と C++ は成功しましたが、 VB.NET は失敗だったのではないでしょうか。VB 6.0 は、2008年にサポート打ち切りになりました。
ちなみにハダノは2006年から、ローカル環境でのプログラミングに Python も使うようになっていました。
2010年ごろから、Flashの人気が低下してきました。AppleがiPhoneでFlash Playerをサポートしないと宣言したのです。スマホが急速に普及したため、PCと共通のWebページづくりが求められるようになりました。「HTML5ならどのブラウザでもリッチな表現ができる」「もうFlashはいらない」と宣伝されました。HTML5+CSS3+JavaScript(ECMAScript5)という新しいWeb標準技術が今後のWeb開発の中心になるというのです。
AdobeはFlashの後継製品として、Edge Animate を出しましたが、3年ほどで積極的な開発を終了しました。※ Flash Player も2020年末にすべてサポート打ち切りになりました。
「Adobeに支配されたくない」Appleの目論見通りになったわけですが、スマホのHTML5対応は一足飛びには進みません。ハードウェアを最大限生かしたスマホゲームがはやり、ネイティブアプリが主役となりました。Web標準技術ではなく、機種に依存した開発になってしまったのです。Web技術で作られたOS(Firefox OSなど)のスマホに期待をかけていたハダノは、あきらめて2015年にペン入力のAndroidスマホを購入しました。「Webアプリがネイティブアプリを駆逐する日がいつか来る」と信じて……。